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上深谷の史跡(再掲載)

深谷神社

中村地区センターの左側に見上げるような石の大鳥居があります。
昭和44年氏子一同により寄進されたものです。
正面には、宝永2年勧請され地域住民の守護神として、崇敬されている社殿があります。
明治4年老朽化のため再建されましたが、大正12年の関東大震災で被害改修されました。
御際神は、伊邪那岐命、伊邪那美命、大和武尊、火産霊神、大山祇命の5柱です。
昔は、聖権現社と言われていましたが明治6年12月、深谷神社と改められ、明治44年10月上深谷の秋葉社を合祀、昭和45年4月本蓼川の山神社を合祀。

子育て観音様Photo_3

観音様のご本尊は厨子の中に安置されており11面観音坐像で、明治30年2月鎌倉扇ヶ谷住人仏師、後藤斎宮慶広の作とお像の背面に墨書されております。
「子育て観音様」の名所の起こりは、定かではありませんが、観音様の胎内にご本尊が宿っておられることから、「子育て観音様」と呼ばれているのではと推測されます。
様ざまに事情から移転が繰り返され、現在の市スポーツセンター前に安置されました。
毎年4月8日にご開帳がが行なわれ、梅花講有志によるご詠歌の奉詠、参拝者によるお数珠を回しての御念仏が奉納されています。

長龍寺

長龍寺は曹洞宗、深谷山長龍寺と称し、平塚市豊田宮下の大智寺を本寺として建立され、御開山は、華翁宗嫩大和尚と申される方が曹洞宗としてのお寺をお開きに下さったのですが、相模風土記によると1440年ごろ土地の豪族蛭川越後がこの地に釈迦堂を健立したのが寺の発祥の由です。
蛭川越後なる豪族が、寺尾字比留川辺に落ち着かれ性を「比留川」と改め現在の地深谷四つやに移り、一族の信仰の対象として、釈迦堂を創建された後に曹洞宗長龍寺と命名。
その後寛永の頃よりこの地は大橋五左ェ門の知行するところとなり、大橋氏は当山に帰依し堂宇の再建、山門鐘楼等を寄進、江戸末期に一族はこの地を去られ、その墓碑郡は現在市の文化財に指定されています。

さいの神Photo_4

さいの神とは「賽の神」のことで村の境や、橋のたもと、辻などにあってそこから外の悪霊や疫病などが村の中に入り込まないよう守ってくれる神様のことです。
上深谷自治会館と深谷保育園の間の市道を旧市役所方面へ約50m行った左側に「賽の神」が祭られています。
碑によると文久3年正月14日相州高座郡上深谷村となっています。
賽の神の碑と隣り合わせに、馬頭観音碑(明治27年10月)と日露戦争の碑が寄り合って立っています。
昔は、周囲が田んぼでこの付近は、消防小屋、火の見櫓、青年クラブの寄り合い所もあり、正月の団子焼き、盆踊りが行なわれるなどして、上深谷村の中心的存在でした。

比留川Photo_5

比留川の源流は、現在県営綾瀬寺尾団地東側最北端の大きな土管から流れ出ています。
昔は、寺尾最北端大塚境の谷戸へ山から絞り出された水がチョロチョロ流れ出して、自然に小さな掘割となっていました。
しかし現在は、土地の開発で県営寺尾団地最北端まで暗渠となってしまいました。
そこから寺尾、上深谷、中村、落合、上土棚と流れて綾南小学校の南方で蓼川と合流する地点が比留川の最終地点といわれています。
全長6400m。
昭和初期のころは、現在より水量も多く底まで澄んでいました。
旧市役所前の所に「五軒町」という橋が架かっています。
この付近は比留川沿いに五軒の農家で町の様な体裁をしていて、「五軒町」の名残りがあります。
ここの人たちは、比留川で野菜を洗い洗濯をし、農具なども洗い生活用水の一部でありました。
また子供たちは、ここで水浴びをし、ハヤやエビ、メダカをすくい、シジミも取ったりもしました。

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